3.亡羊
妃緒や都己が子供達と呼ばれていたかつてと違ったことは、思うがまま話すことや感じるまま笑うことが難しくなったことだろうか。あるい
は時事の報道について互いに意見を交わすようになったこと、妃緒と視線の間にもう眼鏡はないことだろうか。妃緒が街の中学校に入学してしばらく経つ頃に
は、都己とは最も親しい友人ではあったものの二人きりで図書館に足を運ぶことはなくなっていた。別々の学級に組分けされていた二人は日中の大半を、教師が
ただ定められたことを読み上げているような授業を受け、時々同性の友人とくだらない話をして過ごすのみ。妃緒はどこか退屈なことを自覚していたが、都己の
いない時間に慣れつつもあった。
そんなある放課後、朝歩いてきた道を折り返すだけの妃緒を都己が走って追ってきたことがある。
「あれ、部活は?」
「休みなの。妃緒が見えたから来ちゃった」
妃緒の隣に並んだ都己が少し息を切らしながら笑っていた。表情や仕草のどこが違うのかはっきりとは分からなかったが、その頃の都己は少し顔を見ない数日ごとに妃緒の知らない何かを纏っていくようだった。
顔を合わせる機会が減ったことの一因には都己が放課後に課外活動に通っていたこともあったように思う。都己は入学してすぐに興味があると話していた理科部に入部し、それきり学校からの帰り道を共にしたのは初めてではなかっただろうか。
その時二人は最近図書館に行っていないことを話したり互いの近況を聞き合ったりして帰路を辿り、ついでに学校のない週末に街の図書館へ行く約束を立てた。退屈な日々のことを思うがまま退屈だよと話し合えたことが妃緒は嬉しかった。
約束の週末、妃緒は都己と共に初めて街の図書館へ訪れた。二人は小学校の図書館と比べて遥かな広さ、多くの書物を持ったその空間のこと
を安直な言葉で、昔に学校図書館でしたように囁き合った。それから上の階への階段や迷路さながら無数の本棚の脇道に最初は目移りしつつ、端から順に本棚を
見て回ったのだった。
「妃緒、やっぱり理科部に入らない?」
図書館内の人々のささめきに紛れていられる声量を掴むなり、都己が妃緒に持ちかけてきた。中学に入学して間もない頃にも一度彼女の勧誘を受けた
事があったが、当時妃緒はそれを断った。理科部に入ることの妃緒にとっての印象は、普段さして面白いとも思わない授業を加えて課外でも受けるようなもの
だったからだ。妃緒がこれまで書物などの学問で用いるものを片手に都己と会話を弾ませ、楽しいと感じていたのだとしても、それは学問以前の探求心や好奇心
を共にして語り合える相手が隣に居たからというのが大きい。一方都己は妃緒とは違い学問にも興味があるようだった。それを知っていたので、妃緒の中の否定
的な意見を特に述べることなく断ったのである。
再度の勧誘に戸惑う妃緒に、都己は「妃緒が居ればもっと楽しい」と続けて返事を待つ仕草だった。
「俺、勉強とかあんまり好きじゃないんだよな……」
妃緒は自分を小馬鹿にするつもりで笑って襟足に右手を隠す。
「え?」
一声零してから都己も肩をすくめ笑うと、「えっとね」と続けた。
「うちの理科部は授業みたいなのをやるんじゃなくて、実験を沢山やるの。授業でも少しやったけど、それとは別のね。気になったことを、できることから」
都己は聞いて尚掴みきれていない妃緒の反応をそわそわと伺う。
「でも、全然趣味でもない俺じゃ入りづらいよ。全然休みが無いって噂もあるし」
「休みくらいちょっとはあるよ。ちょっとだけど」
笑う声にやりとりを混ぜた程度でしかない慣れ合いをやって何度か。妃緒と都己はしばらく同じ本棚と本棚の間にいた。そしてゆるく進展のない交渉を振り切るように都己が話し始める。
「私が理科部に入ったのはね」
ふと渡ったその余談をするにあたって、都己はいっそう小声で「笑わないでね」と念を押した。
「昔見てた子供向け番組のキャラクターに憧れて入ったの。妃緒、憶えてる?ミスター・シーク」
妃緒は昔観ていた放送番組のことを久しぶりに思い起こした。今思えばコメディものだったであろう短編アニメーション。そのことを当時は都己とよく話していたのを憶えていた。
「憶えてるけど……あれ、大分前のだろ?」
「そうだけど!私にとってはずっと憧れなの」
「へえ……」
妃緒はぼんやりとそのキャラクター像を思い浮かべながら空返事をした。白衣と眼鏡、どこか謎めいた雰囲気、研究者か科学者かの肩書き、そして登場の度に何か実験をしている姿。頭が良く大胆不敵なキャラクターを子供心に格好良いと思ったものだが、それくらいのものだ。
「ああいう風に……なりたいのか?」
それが理由で、実験をやる理科部に入ったとでも言うのだろうか。都己の言う動機がよく分からなかった。妃緒が探るように訊ねると、その怪訝な顔を見て都己は言葉を探す仕草を見せながら否定した。
「自分の目で見る、っていうところが好きだった。彼の実験はそういうものだったと思うの」
「自分の目で見るところが」
「たとえば妃緒は勉強が好きじゃないでしょ。そして今私達がしている勉強の殆どが、決められた形の答えを憶えていくこと。だとしたら、それを好きになれないのは、本当はそうじゃないかも知れないことを植え込まれていくのを感じるからじゃない?」
その時妃緒は日々あった釈然としない感覚の正体が見えたような気がしたと同時に、都己の目に自分が捉えられていたのだと感じた。妃緒は「そうかも」と平坦に返し、既に合わせられているであろう照準の、あとは当てられるだけというところを僅かばかり足掻いて留まらせた。
「学校の勉強、私も時々苦手に思うの。だから妃緒もそうかなって」
都己は少し首を傾けて赤みのさす笑顔で言い、妃緒は都己も同じだと聞くなりついに頷いた。
「うん……そうだな」
都己の言う通り、妃緒にとって妃緒の生きている世界での学校での教えとは、どこか、どういう訳か、およそ活字で書かれた知識の口伝てといったところだった。それを自分達で探求したあの時間と比べることで、より妃緒にとって価値の欠しいものにしていた事には薄々勘付いていた。
「実際に見てみるのが実験。りんごを割って見て知った中の色と、りんごを割らずに知った中の色の知識。二つには絶対違いがある筈でしょ。授業みたいなのをやるんじゃないっていうのは、そういうこと」
妃緒は形無いものの感触、その輪郭を自分より先に捉えていた都己を見て初めて、彼女がただつまらない学問に興味があった訳ではないことを悟った。
妃緒は理科部のいかに授業とは違うかというところには納得し、頷いてみせた。
「よく分からないけど、妃緒のことは信用してるの。妃緒があの授業を好きじゃないことだって全部、見る目があるからだって。私も、ちゃんと中身を見て知りたい。そういうふうになっていたいの」
都己は妃緒に少し熱心な様子で訴えたあとそんな自分に気付いたような顔をして俯いた。
「えっと……だから、授業とは違って楽しいよ。無理にとは言わないけど、居てくれたらいいなって」
改めて要求を提示する都己。妃緒は悩ましげな呻きを漏らし眉間に皺を寄せていた。
「……少し考えさせてくれ」
霧がかった思考が、つい今まで見ていたものと目に映る景色をゆっくりと区別していく。右頬には敷布の感触があり、妃緒はそれを敷いた寝台に四肢を折り曲げた姿勢で横たわっていた。
枕側の壁に小さな窓が一つある六畳の自室。妃緒は薄手のカーテンの布目に透けた色で空模様が分かると、枕元の腕時計を手に取って午前六時を確認した。
昔の夢を見た。今でも憶えている他愛ない日々の一つがそのまま映し出されたかのようだった。そして先程まで見ていた都己との記憶の残像は思いが
けず、自分が彼女に為したことへの罪の意識に返ってきてしまった。背筋が凍り、血の気は引いていき、跳ね上がった心拍は腕時計を手放した妃緒のその指先を
揺らした。あれから幾度となく経験したこの感覚は頻繁な発作と呼んでも間違いではあるまい。一人でいるときは目を閉じ、ただ動かず、何がとも言いようのな
い全てを否定する言葉が頭の中から唇から、滑り落ちるのを堪えている。ときに口はひとりでに動くが人に聴こえるほどではない。妃緒は何も考えないことに専
念し、寝台で発作が過ぎるのを待つのだった。
しばらくして、妃緒は目を閉じる前と全く同じ景色の前に瞼を持ち上げる。上体を静かに起こし、敷布に滑らせた両足をやっと床に降ろした。