GOTAKU
STORY
「BAKU」
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  2.起床

 正確には六度。妃緒はこの『もう一つの仕事』を始めるより前に一度、客以外の者の夢に踏み入ったことがあった。
 それは妃緒が初めてマスターの喫茶店に訪れた日――妃緒が展望台のはずれから身を投げ出すところをマスターに拾われた日の事。妃緒はこの喫茶店でウェイターとして働くことになり、又もう一つの仕事――客の悪夢を取り除くという奇妙な仕事を与えられた。
 虚ろな精神状態でマスターの話を聞いていたが考えることはできず、妃緒はただ力無い肯定の返事を続けていた。その中で唯一マスターに質問したこ とが、夢を取り除く仕事をどうやってこなせばいいかということ。妃緒はマスターに実際にやってみるように言われ、何も分からないまま夢の中へといざなわれた。
 気付けば妃緒は、ここは現実ではないと一目で分かるような場所にいた。鮮明な景色の記憶はないが、どの客の夢よりも不安定で混沌としていて、ぐ ちゃぐちゃで、襲い掛かってくるようで、恐ろしかったことだけは憶えている。妃緒はそこで夢の中にいた自分自身を撃ち殺し、初めての夢見を終えたのであ る。それから妃緒はマスターのもとで時々客の悪夢を見ながらこの喫茶店で働き過ごしている。

 「やあヒオ」
 日の昇りきらない朝方。ウェイターの制服に着替えてホールへ出ていった妃緒に、すっかり厨房の制服姿の先輩がカウンター席で一服していた。
 「早いじゃない。どうしたの」
 先輩は顔に張り付いたその気だるげな笑顔のままコーヒーを口にした。厨房係の先輩の朝は妃緒よりも早い。いつも仕事が始まるより前に先輩が厨房やホールにいるのを察していたが、これほど早くに姿があるところを見たのは初めてだ。
 ええと。口元で握った拳の中で言葉がつかえる。
 「その……手伝いが、あればと思って」
 妃緒の返答を聞くなりふうん、と微笑む先輩。カウンターに肘を付き、先輩の横顔が妃緒の方を向いた。
 「でも酷い隈だね。全然寝てないって顔」
 そう言って先輩が自らの目の下を指す。妃緒は瞼に手をやった。それを先輩がずっと見ている気がした。
 一晩中起きていたとはいえ、よく眠れないのはいつものことだ。ここへ雇われてから――それよりも前からだったかも知れない。妃緒の夢に彼女が現れるのだ。とても物語などない映像めいた景色の中に、記憶の断片のような彼女の姿が。
 「どうかしたの」
 先輩がコーヒーに向き直り、読み上げるように言う。
 妃緒は再び言葉に詰まった。二度目の問いだった。普段からある筈の隈について先輩に指摘されたのは久し振りだ。この隈の程が一層酷かったのか、妃緒が一晩中起きていたのを知られていたのか。どちらにせよ先輩は、妃緒の顔に浮かぶ不安の色のわけについて訊ねていた。
 その場逃れの答えを並べる事はできる。呆れた表情をされて、それ以上問いただされはしない事も分かっている。ただ今の妃緒には、自分の中に留めておくだけでは燻っているものがあった。
 「昨日は、仕事をした気がしなくて。手持ち無沙汰で……なんて」
 勝手ですよね。妃緒は独り言ち俯いた。
 すぐあと、先輩が妃緒の名前を一声。妃緒が顔を上げると先輩は自身が座っているカウンター席の隣の椅子を引いて妃緒に手招きした。

 昨夜、裏玄関を閉めたあと妃緒はマスターに例の仕事について訊ねた。客の悪夢を見ることは、妃緒に苦痛を与えるというよりは妃緒に客の情報を与えるという方が先であり正確なのではないかと。客の夢を見て苦痛を感じるかどうかは自分次第で、そこに客の精神との共鳴はない。
 「バクさんは何て?」
 「……そうだな、って」
 妃緒が答えると先輩はマスターなら言いそうだと笑った。
 とはいえ、軽くあしらわれると半ば思っていた昨日の妃緒の問いにマスターは応じてくれた。ただ答えは以前抱いていた期待を裏切るものであり、妃緒がそのとき予感した現実の方を肯定するものだった。
 それでも今は客の悪夢とその副産物として苦しみを喰らっていてもらう他にないのだと言ったマスターの言葉まで疑うことはなかったが、ひとまずそ の妥協点に置かれた妃緒の中で何かが燻っている。仕事をした気がしないと言うのも間違いではないが、妃緒は昨日の『もう一つの仕事』で、人の痛みを感じる ために見てきた五度の悪夢全ての価値を見失いかけていた。そのことは同時に妃緒がこの喫茶店に留まる意味を疑わせる。
 「住まわせて貰ってますし、こっちの仕事はマスターの手伝いだと思ってやってます……でも、向こうの仕事も俺に見合った処分だとは思えそうになくて」
 最初から、自分が過酷に感じた仕事を処罰と履き違えていただけ。客の悪夢を見て確かに苦痛の収穫があったから。最初にマスターが、自分の処罰を 取り締まってくれると言ったから。それだけが頼りでここに囚われ、ただ生きていた。そして昨日、やっと目が覚めたような気がしたのだ。
 「こんな甘い生活なら早く辞めないとって思ったんです」
 言いながら妃緒は立ち上がった。泣き言を先輩の前で並べ続けていると肩身の狭い気持ちばかりが募っていくのだ。妃緒は椅子の脚で床を轢き、自分の語りを半ば強引に断ち切ろうとする。
 「死ににでも行く気?」
 椅子の背を押しカウンターテーブルの下に仕舞いかけている妃緒の手に、不意に先輩の手の平が被さった。
 「そ、それは……まだ」
 「ああ、君が一回死にに行ったって聞いたから、つい」
 妃緒が顔を歪めていると、先輩は手を離して続ける。
 「ヒオが急ぐのには理由があるの?」
 コーヒーカップの少し先を見つめていた先輩は、言葉を一度飲み込んだあと妃緒の顔をちらりと見た。
 「オレも考えてあげたいけど、それには君が一体何をしてしまったのか教えて貰う必要があるな」
 先輩の言葉で、ひやりと背筋につめたいものが走った。血の気が引いていくのを、鼓動が大きくなるのを感じる。自分の行いをかえりみるたびに蘇る悪夢が、心臓を締め付けるようだった。
 「俺、なんで生きて……」
 ひとりでに口が動く。妃緒は椅子の背に両手を掛けたまま、じっとカウンター上に目線を落としていた。
 「おい!」
 背に衝撃を受け、指先にまで感じていた鼓動の拍子が大きく崩れる。妃緒は先輩に背を叩かれたことに気付き隣に目をやった。
 「しっかりしてよ。問い詰めたい訳じゃない」
 「す、すみません……」
 妃緒は顔に掛かった髪を退け、屈むような姿勢を正す。
 「言えないならいいよ」
 「……はい」
 妃緒は再び椅子に着かされると、こちらを向いて座っている先輩の顔色を窺う。
 溜息をひとつ吐いた先輩は諭すように妃緒に語りかけた。
 「多分、罰されればされるほどいい訳じゃないよ。より相応しい処罰を考え出す時間がまず必要だ」
 妃緒は失った彼女がかつて何度か似たようなことを言っていたのを思い出し、少しの沈黙ののちに「はい」とだけ返した。それきり黙っている妃緒の前で先輩があくびをし、またコーヒーを口にする。
 「誰も君を処さないのは罪に値しないからじゃないの?」
 妃緒は俯く姿勢のまま答えなかった。
 誰もがそう言って妃緒を罰さなかったからと、妃緒はあの日展望台のはずれに赴いた。その判断だけは今の妃緒にも多少理解できるが、あの時のよう な命を絶つことへの勢いは日に日に薄れているに違いない。あの時を逃した妃緒はもう生きるしかなくなってしまったのだ。だからこそ処罰が、必要だというの に。
 「そんなにもうどうしようもないなら、バクさんに記憶を取ってもらえば?」
 「だ、だめです」
 妃緒にとって名案にならないことは先輩も予感していたようで、やっぱりだめかという顔ではは、と笑った。
 「それは一番、駄目です……」
 「そう」
 少しの沈黙が流れたあと、先輩がぽつりと口を開く。
 「バクさんがヒオにしていることがよく分からないんだ」
 先輩はコーヒーカップの持ち手を指でなぞりながら伏し目がちな笑顔で続けた。
 「それ以外も分からないことだらけだけど、ヒオを放っておけなくて連れてきたのかな。あっちの仕事を続けてもらうしかないって、どういうこと?」
 ――不満。妃緒は先輩の言葉をにわかにそう感じ取った。
 「バクさんはあっちの仕事、いつからどうやってやってるんだろう。ヒオがこうやって話すからには嘘じゃあなさそうだけど、ヒオは人の夢を見るのが不思議じゃないの?」
 「勿論、不思議ですけど……その、だから今までやってこれたっていうか」
 妃緒は先輩の言葉から彼とマスターの距離感に違和感を感じつつ先の質問に答える。認め難いことだが妃緒は無意識に、その不思議を自分のためにあるようだと感じていたのかも知れない。妃緒は溢れ出そうになる自分への嫌悪をひとまず抑え込んだ。
 「マスターのこと、あんまり知らないんですか」
 「あんまりね。夜は全然会わないし」
 「先輩は向こうの仕事は一度も?」
 「ああ、ないよ」
 やりたくもないと言うような先輩の物言いが引っ掛かる。例の仕事は時間帯的にもマスターと妃緒以外にやる者がいないこと――ましてや朝昼喫茶店 で働く先輩がやらないことは不思議ではなかったが、さておき彼は妃緒よりもずっと前からこの喫茶店でマスターと暮らしているらしいのである。
 「ヒオを放っておけなかったんだとしても、自分の店に住まわせるなんて何番目に出るアイデアだろう」
 妃緒は再びコーヒーを口にする先輩に対し無言で何度か頷くのみだった。
 先輩が咳払いをする。
 「まあそれより、君とまともに話せて良かった。色々考えられるまでは回復したようだし」
 「はあ……」
 妃緒は昨夜までの自分がいかに考えを放棄していたかを思うだけで、先輩のする横目が軽蔑の視線に感じられるようだった。
 「……もう少しここで考えてみます」
 「うん」
 別物かもしれない罰のような味をしたのものに目が眩んでいたのは事実。別物であったとして、妃緒にとって利があるのかないのか。ここを去るのはそれを決めてからだ。
 「バクさんにはそれ以上聞かなかったんだ?」
 「だって、何だかマスターの事疑ってるみたいで」
 妃緒が言うと先輩は片手で口元を覆い、声を堪えて少し笑った。何か変な事を言っただろうかと不安げにする妃緒に気付くと、軽く謝るような手振りをしてどこか上機嫌そうな笑顔を露わにした。
 「それは疑ってるってことじゃん」
 先輩の言葉に妃緒は中々相槌を打てずにいた。もし頷けば妃緒が価値を見失いかけているものを本当に手放してしまうような気がした。
 「……でも、疑われて良い気分はしない筈です」
 妃緒が言うと先輩は呆れたように、しかし笑いかけるように息を吐く。
 「妃緒は優しいねえ」
 「……」
 「でもまあ、そうだね。オレもそう思うよ」
 そう言って先輩はいつの間にか空になっていたコーヒーカップを机上に置き、妃緒の方へ僅かにその笑顔を寄せてきた。
 「だからオレがあれこれ言ったことも秘密にしておいて」
 「……はい」
 「また何か聞きたいことがあったらおいでね。ここバクさんしかいないから退屈なんだ」
 突然やってきた妃緒のことが必ずしも邪魔ではなかったのかも知れない。そう思わせるような笑顔だった。
 「待ってたよ。君の目が覚めるの」
 やっと妃緒の目が覚めたと思っていたのは先輩も同じのようだ。そしてきっとマスターも。
 自意識に足を取られる妃緒をよそに立ち上がった先輩は「じゃあ」と手を振り、コーヒーカップを持って厨房へと去ってしまった。

 *
 昼時を過ぎた喫茶店。妃緒は作業音と僅かにラジオの鳴る厨房の入口をくぐりながら、メモを片手に客の注文を読み上げた。
 「アップルラテ二つです」
 使い捨ての手袋を嵌め食器二組を並べる。厨房内に並ぶ抽出器のフラスコに目をやりつつ瓶を手に取った。手を洗い終えた先輩がその手に消毒液を擦り込みながら台を移動する。
 「それくらいメモ要らなくない?」
 妃緒の方を見やりもしていない筈の先輩がそう軽口を叩いて笑う。妃緒は内心その通りだと思いつつも声に出すには至らなかった。
 「りんご、これで最後〜。ミルクもそろそろでしょ。今日はもうお開きだよ、お開き」
 妃緒はミルクを容器に注ぐだけして抽出器が並ぶ台に移動した。
 「ここって、俺の前に誰か働いてたことあるんですか」
 妃緒はふと先輩に訊ねコーヒーの粉が入った袋を手に取る。用意してあった抽出器のパーツであるガラスの器に既定の量を入れ、上部に嵌め込んだ。
 「いや、オレのあとにはヒオだけだよ」
 ドライアップルを刻んでいた先輩がそれを終えてこちらを振り返る。
 「……そうですか」
 「ヒオが来る前はバクさんもホール出てたんだよ。あれでもね」
 小さく笑う先輩を背に、妃緒は沸騰するフラスコの湯が昇っていく様子を眺めていた。
 以前ここで誰が働いていようがいまいが妃緒の問題にはならないのだが、妃緒と仕事をするのに先輩が実に悠々としているので、こういう環境には経 験があるのではと思ったのだ。ずっとマスターと先輩だけでやっていたというのも然ることながら、あのマスターが厨房やホールで働いていたことは妃緒にとっ ては驚きだ。
 妃緒はぼんやりとした視界の抽出器に、すっと我に返ったように焦点を合わせた。湯に溶けていくコーヒーを静かに掻き混ぜる。なんとなくでしか 分からない液体や泡の分離を形式的に確認し、火を弱めた。すぐ側に置いているタイマーのボタンを押すとその画面が既定の秒数まで数字を刻み始める。
 「はいこれ」
 先輩がドライアップルを妃緒のいる台へ置いていき、また後ろの台でミルクの容器を手に機械の前に立つ。蒸気の音がして少し経つと、液体を泡立てる細かな音が厨房に大きく響いた。
 二組の食器に林檎のソースと少量のエスプレッソを注ぐまでの順を追った妃緒は、間もなく先輩がそこへミルクの泡を注ぐのを黙って見ていた。
 先輩が木目細かい泡の上からキャラメルソースを落とし、瞬く間に林檎の模様を描き上げる。彼はシナモンパウダーをふるい小さく刻んだドライアップルを乗せると、やり終えたという仕草をして後ろの流し台へ戻っていった。
 今日何度目にもなるメニューの名前を再び脳内で呟き、妃緒は作り終えた二つをホールへ運んだ。客席には既に注文を終えた二組だけが残っていることを確認する。
 今日これで最後となった『アップルラテ』は、この店では女性によく好まれる冬の定番のメニューらしい。
 運び終えた妃緒が足早に厨房へ戻ると、先輩が半端に残ったドライアップルの粒をつまんでいるところだった。妃緒は空になったトレーを棚に返し先輩の様子を窺う。すると果肉を口に含む先輩のどこか気だるげな目だけが妃緒の方を向いて、あと一粒だけ残っているドライアップルの皿を妃緒の前に突きつけてきた。
 「いえ、俺は」
 「早く」
 妃緒をからかってとばしただけであろう先輩の気迫に圧され、断る気力もなかった妃緒はぎこちなく手の平を差し出す。逆さにした皿の中身が妃緒の 手に零れると先輩は笑った。妃緒は空になった皿を手早く片付ける先輩を見やりながら一粒を噛み砕く。処分といったつもりで口にしたが、その林檎の甘酸はつ い飲み込んでしまってから口内に余香を探すほど妃緒の口に合うものだった。片付けに加担しようと妃緒が視線を上げると、入口のきわに背の高い黒い影――マスターが凭れかかるように立っていた。
 「何だ。腰抜かしそうな顔しやがって」
 「いえ、驚いただけです……」
 妃緒は詰まる喉を開いてただ本当のことを答えた。先程まで無かったマスターの姿。驚いても不自然はない筈なのだが、今朝の先輩との話が頭に残っていて良くない。秘密にしておいて――その言葉をかえって気にしてしまうのだ。
 すっかり終業に入る調子の先輩とマスターを横目に再び厨房を出た。妃緒は掃除用具の収納近くに掛かっていた『CLOSE』のプレートを取り、客の目を避けるようにしてまた足早にホールを横切る。表玄関の戸を開けプレートを掛け直した。
 
 喫茶店で働くようになってからというもの、店内の控えめな電球色の照明のせいもあってか外が眩しく感じる。薄く積もった雪は青みがかっているようだった。
 喫茶店の仕事が片付いたら――。妃緒は白息の出そうな空気に肩を竦めながら、夜までの時間の使い道に考えを巡らせた。


 *
 睡眠中における『夢』については多くの解釈や研究があった。仕組みを説明できる科学的なものだとする記述が無数にあり、しかしその中に夢が生成 される具体的な過程や条件、仕組みを解明したというものは見当たらない。憶測に留まる多くの記述の中で、特に散見されるのが『記憶』という単語である。
 妃緒は片手に収まる大きさの情報端末、そのディスプレイ上の幾つもの記述を目で追っていた。膝の上には食材が入った袋を抱え電車に揺られている。喫茶店で切らしてしまった材料が届くまであと少しという、その少しを凌ぐため数駅先の街へ遣いに出された帰りだった。
 “夢とは、睡眠中に行われた記憶情報の処理の過程で想起された記憶の断片を、当人が補完して認識したものである。”
 夢については一般的とされている仮定があるようで、目についた記述はもっぱらこの仮定が前提となっていた。
 これらの記述が真実だと言われれば、妃緒は頷くしかない。神のお告げ、当人の潜在的な願望、記憶の断片を補完して認識したもの――どれだと言わ れても、そうかも知れないと思うことしかできないだろう。ただ、妃緒の生きている世界においては先の三番目がもっともらしく、人々の実感とも辻褄が合いや すく、研究から共通の理論としても根強く定着しているようだ。
 各記述が重点を置いている話題は様々だったが、悪夢の要因の考察、負の感情を伴う記憶の留まりやすさ――記述の随所が妃緒の中で、夢についての記述を漁ることのきっかけになった『もう一つの仕事』と繋がっていくのである。
 そして自分が何も考えないでいたことを愚かだと感じ、そして誰かの記述を漁り。妃緒はこの片道、それを繰り返してばかりいる。例の仕事への疑念がおもであるが、じっとしていられなかったというのが実のところだ。パン屋の店主だった例の客の夢を見て以来、何もしないでいる時間はより恐ろしい。
 文字列を追い続けていた妃緒の目が、ある語を捉えた。
 “獏”。
 そこには、人の夢を喰って生きるとされている想像上の生物『獏』についての短い記述が挟まっていた。
 ――ばく。その音は脳裏で近しい人物の呼び名と重なる。彼は喫茶店のマスターであり、あの奇妙な夢の仕事を妃緒に与えるまさにその人だ。妃緒は マスターの呼び名が本名なのか考えたことは無かったが、それは本名でないと思ったことも無いからだ。耳障りも少し珍しいくらいで名前としての違和感も感じ なかった。しかし、人の悪夢を食べるとされる霊獣、獏……
 妃緒はにわかに騙された気になった。無論勝手に騙されたのだが、あの呼び名は先輩がマスターに付けた愛称であるという予感が突然膨らみ、よく分からないが自分はそう呼んだことがなくて良かったと思った。
 ただ、マスターの営むあの仕事――『夢喰い業務』の実態については、何度か夢を喰らった筈の妃緒自身にも全く分からない。
 一体、自分は何に騙されているのだろう。


 妃緒は電車に揺られていた。客席に一人だけの電車が一駅先にある終着駅へと向かっていた。
 胸騒ぎがしていた。向かう先で良くないことが起こるのを妃緒は憶えているからだ。


 ごと。
 足元で音がして目を覚ました。目の前には誰かの手と、そこに妃緒がつい今まで片手に持っていた筈のもの。
 「あっ」
 滑り落ちた感覚の僅かに残る手が咄嗟にそれを取る。妃緒は顔を上げた。
 「す、すみません」
 受け取った妃緒の両手は熱を持っていて薄く汗が滲んでいる。気付けば、額にも。
 目の前にいた青年は妃緒のぎこちない会釈を見ると、妃緒のいる車両右側を歩いていき少し先の席に着いた。
 既に次の停車駅は妃緒が降りようとする二つ前になっており、先程まで居た乗客の多くの姿は無くなっている。車内客室には妃緒と青年の他に女性が一人残るだけだったが、その女性も手荷物を纏める素振りから見て間もなく降りるようだ。
 妃緒は先程青年から受け取ったまま握りしめていた情報端末をコートのポケットに仕舞い、くまの浮く目元を両手で覆った。この数か月――彼女を失くして以来、妃緒はまともに眠れていなかった。
 駅で停まった電車から女性が降りていくのを視界の端で捉えつつ、妃緒はその両手の中で深く溜息をつく。食材の袋を抱え込み両肘を膝に付く妃緒の方へひとつ声がした。
 「お兄さん、大丈夫?」
 妃緒は背を丸めた姿勢のまま青年の方へ顔を向ける。「はい」と短い声だけが妃緒の喉から出ていき、それ以上は何も続かなかった。
 「顔色悪いよ。良かったら送ろうか。次で降りるだろう?」
 「いえ、そんな……」
 次で降りるだろうというのは、人のよく降りる駅が次で最後だからだろうか。どうやら青年も妃緒と同じく次の駅で降りるようだった。
 「睡眠の邪魔してすまないけど、寝過ごしても面倒だろう。隣が終着だからどうってことないか?」
 妃緒は青年の言葉にぎくりとした。もし寝過ごしていたらと思うと身が竦むのは、おそらく次の終着駅が妃緒の悪夢に続いているからに違いない。
 間もなく駅に着き、妃緒と青年は電車を降りホームをあとにする。妃緒がぼんやりと遠くを見ると早くも空に日暮れの色が灯っていた。
 「一人で帰れるか?」
 「はい……ご心配掛けました」
 冗談を匂わせる言い草の青年だったが、妃緒は愛想の一つも振る舞わずに頭を下げた。
 「できるならきちんと眠った方がいいよ。眠らないでいると判断力も記憶力もどうかしてしまうんだ。どうしても眠れない人にこんな事を言っても仕方ないけどな。君がそうでないといいんだが」
 妃緒は数歩先の青年の言葉を黙って聞いていた。こうして妃緒に言葉を掛ける様子を見ると急ぐような予定がないらしい。
 「そうだ」
 青年がそのコートから小さな紙を取り出し、妃緒へ差し出した。
 「この辺りで茶屋をやってるんだ。茶は好き?」
 妃緒は紙を受け取った。名刺だった。
 「……コーヒーよりは」
 絞り出した妃緒の言葉を聞くなり青年は好感を示した様子で笑う。
 「それはよかった!コーヒーとは張り合っていてね。来てくれたらよく眠れる茶を奢るよ。それじゃ」
 青年との別れ際、妃緒はただ頭を下げ黙っていた。
 おそらく妃緒はただ居眠りをしているだけの少年にはなりきれなかったのだ。目が覚めてからの仕草か、表情か。もしかすると寝言で何かを言ったのかもしれない。何にしろ、きっと妃緒の何かが少し風変わりなあの青年の憐憫を煽ったのだ。
 妃緒はまた俯きがちに歩く姿勢を正した。夜へといっそう冷めゆく空気を感じながら喫茶店へと進む足音は、自身の鼓動を紛らわすように硬く響いている。
 昨夜から妃緒を縛ってやまない不安と焦燥のもう一つの種。あれから久しく向き合わずにいたことだが、妃緒にとって自分を見つめること、人の目を通して自分の姿が見えることは、常に恐ろしかったのである。それは単に彼女・・を殺めた自分が映るという理由だけではない。彼女が隣に居た幼い頃からずっとそこにある、妃緒を彼たらしめ得る感覚であった。


 *
 妃緒が彼女――都己ときと会ったのは、妃緒が父親の転勤でこの街へやってきてすぐに入学した小学校でのこと。当初妃緒は同級の子供達が集う教室でじっとしているのが精一杯だったが、内気な妃緒に進んで話し掛けた者達の中でも彼女とは特に親しくしていたように思う。
 午後の授業の前に設けられていた自由時間、妃緒は学校図書館で過ごすことが多くなっていった。いつしか妃緒がそこでよく都己の姿を見るようにな ると、二人はわざわざ広い読書席の隅に本を持ち寄り、隣り合って座った。館内に散らばっていた上級生達がするように妃緒も都己も声を潜め、ページを指差し 話し合うのだった。
 面白かったのは、都己に幼いながら多くの知識があったことである。植物や天体の図鑑、都己には全然似合わないと感じた昆虫や自動車の本の内容 も、妃緒が読む頃には既によく分かっていたようだった。妃緒はといえば知識においても他の能力においても別段秀でたものはなく、隣に座る都己に恥ずかし気 もなくあれこれ訊ねたものだ。
 「あのね、最初は妃緒のこと、テレビのミスター・シークに似てるなって思ってたの。わかる?」
 ある時、都己が妃緒への最初の印象について話したことがあった。それが妃緒には嬉しくもあり、不思議でもあった。
 「あっ、わかるよ。でもどこが――これ?」
 その当時掛けていた少し大きめの眼鏡。妃緒は都己も見ていたという放送番組のキャラクターと同じ黒色の眼鏡に手をやった。
 「うん、そうかも」
 都己が答えると妃緒は少しはにかんで眼鏡の淵を押さえる。
 「でも俺似てないよ。物知りでもないし、かっこよくも」
 「物知りじゃなくてもいいもん。かっこいいのはきっと大人だからだよ」
 都己があんまり見るので妃緒は咄嗟にそれを外し、都己と一緒になって眼鏡を見つめた。
 「ねえ、かけてもいい?」
 「いいよ」
 妃緒が眼鏡を手渡す間、都己はまた妃緒の方を見ていた。
 「眼鏡じゃない妃緒もいいね」
 「あ、そう……」
 都己が眼鏡を掛け、架空の研究家『ミスター・シーク』さながらその髪を耳にかけてみせる。
 「ふふ、シークみたい?」
 そう訊ねた都己。妃緒はきっと頷いたのだろう。
 妃緒と都己は新たな話題を見つけては頻繁に集まり、その場所は図書館のみではなくなった。図書館から本を借りて教室で話したり、学校のない日に 公園で待ち合わせたりした。やがて本がなくても教室での居心地の悪さを紛らわせるようになったが、それからも新しい本が入る日には都己と図書館に足を運ん だのを憶えている。


 *
 人を死なせたこと。それが今まで妃緒が犯した、おそらく最大の罪だ。ただおそらくというのは、妃緒には他にもう一つ大きな罪として思い当たることがあるからである。
 言うまでもないことだ。
 「ではこちらをよく読んで記入をお願いします。――少しお待ちください」
 フラスコとコーヒーの抽出器、馬鹿馬鹿しいことが書かれた同意書。妃緒はテーブルをあとにして店の奥へ足を運んだ。仕切りのカーテンをくぐると、壁際の棚から紙袋を取り出した様子のマスターがこちらを向く。肘で棚の戸を閉めながらその紙袋――夢喰い業務・・・・・専 用のコーヒーを妃緒に差し出すので、妃緒は喉まで出かかっていた言葉を呑み込んだ。次の手順――マスターに客の話を聴いてもらうためここへ呼びに来たこの 時に、マスターが言おうとしていることはすぐに分かった。客の事情を聴取するのは前回きりで終わりにしたかったところだが、どうやらこれからは妃緒の仕事 になるようだ。
 妃緒は無言のままそっと紙袋を受け取る。
 「客がキレたときだけ呼べ」
 「えっ……」
 煙草を僅かに離し言い放つマスター。妃緒はまた空気のような声を零した。なんてことを言うんだと書いてあるその顔で短く返事をし、再びテーブルのある個席へと踵を返した。

 今回の客は無名の音楽グループの一員の女性らしい。その活動はあまり振るわずにいるようだ。
 妃緒は例の同意書を受け取るとテーブルの隅に寄せ、フラスコの湯に火をかける。手元に一枚白紙を置いて客の話のメモを取りはじめた。
 「ただの趣味だとしても良い作品にしたいのは当然でしょう?だから私も色々考えたり練習したりしてたの。それで、あと少しで何かひらめきそうだったんだけど、メンバーの話し声が聞こえてきて――」
 どうやら女性はそこで聞こえた他メンバーの言葉を今も引きずっているとのこと。それからというもの、今まで楽しく取り組んでいたというグループ の活動でメンバーの視線を気にせずにはいられなくなったようだ。この女性が悪夢として差し出すのは、彼女が他メンバーの言葉を聞いてしまった時のことらし い。
 妃緒は不躾と思いながらもその言葉というのをおおよそ聞き出し、書き留めた。そしてその時女性が居た場所や他メンバーの風貌などを手短に訊ね、再び彼女の思うことに耳を傾ける。
 「いつ失望されるかと思うと怖かった。何かがもっと必要だってわかってたの。だからそのアイデアを提案したかったんだけど、それも飛んでいっちゃって、さっぱり駄目になっちゃった……」
 フラスコのガラス越しに最低限の相槌を打つ妃緒。女性は自覚していたそれまでの不振を提案を以て打開していきたかったが、一手の差でその言葉に 討たれてしまったということらしかった。アイデア惜しそうにする彼女のひらめきを呼び戻すことができればいいのだが、生憎この店は忘れさせることはできて も思い出させることはできない。
 「それで、彼が言ってたこと、自分でも考えてみたけど、結局見えないものなんて分からなかった。アイデアもどんどんつまらなくなるし、演奏は堅苦しくなるし。でも面白いね。こんなこと一つで身動きできなくなっちゃうなんて」
 女性はぎこちなく、茶化すように笑った。
 俄かに妃緒は、忘れたところでグループメンバーの彼女への評価が変わることはないのにと考えたが、身動きが取れないという状況にだけは妃緒自身 もよく覚えがあることだ。視線が針のように感じられ、背筋に刺さり、毒が回るように全身が重く痺れても足取りを乱すことは許されず、どうにか他人の視界を 逃れたその一瞬でやっと息継ぎをする。彼女のそれがどれほどのものか妃緒には分からないが、そんなものを感じなくなればさぞ自由に動くことができるだろ う。そんなものを、たった一つの言葉を忘れるだけで取り去ることができるというのなら、ここでは簡単なことである。

 ミュージシャンの女性を別室に案内したあと、妃緒はいつものように個席の道具を片付けていく。そして客のいなくなった個席に一人腰掛 け、フラスコのエスプレッソをカップに注いだ。不揃いな字が上半分にだけ並ぶメモ紙を折り畳んで制服のポケットに差し込むと、ゆっくりと一杯を飲み干し た。


 妃緒は見晴らしの悪い霧の中にいた。
 踏み出してみると靴がほんの僅かに沈み込む感触がある。慎重に歩を進めるが、その足音はほとんど聞こえない。そのうち両脇に黒がかった木目調の 壁が見えはじめると、床がタイルカーペットであることに気が付いた。新しい建物の廊下のようだ。左右にも戸や通路があったが、妃緒は物音のする奥の方へ進 んだ。
 前方に人影が見えると妃緒はカフェエプロンのポケットを確認する。そこにいたのは先程のミュージシャンの女性だった。物音がするのはまだ少し先のようだ。彼女はそこで自由を失ったきっかけの言葉に遭うのだろうか。
 夢喰い業務を以てしても、妃緒に客の苦痛の全てが見えることはない。今も妃緒はその言葉がミュージシャンの女性が自由を失い、繰り返し夢に見る ほどのものであることが分からないでいる。更に彼女自身がその記憶をなくすという形を選択したこともまた、分からない。もっとも、彼女がこの店の奇妙な業 務について信じていたとも限らないが。
 女性のあとに妃緒が少しだけ隙間の開いた奥の戸に近付いていくと物音に混じりぼやけた声が聞こえはじめ、やがて声は輪郭を持つ。妃緒はエプロンの中で銃のグリップを握りながらどちら・・・どちらを撃つべきか考えた。それを聞いてしまった彼女か、あるいは口にした者の方か。
 妃緒は左手でメモ紙を開いた。
 「ユイ、なんか分かってないんだよな」
 メンバーであろう男性の声が聞こえた。妃緒の先を歩く女性が戸に掛けた手を止める。様子を窺いながら身を潜めている。そしてしばらく待った彼女がようやく戸を開けると、その部屋――話に聞いていた風貌の男性メンバーを含む数人の輪に勢い良く入っていった。
 どちらを撃っても同じだと妃緒は考えた。目的のものは忘れられるのだ。
 妃緒は引き金を引いた。


 妃緒が夢から覚めて数分すると、同じく目を覚ましたミュージシャンの女性が少し伸びをしながら別室から戻ってきた。妃緒は少し離れたテーブル席の前で立って迎え例にならって客の気分を伺う。良い気分だという彼女を、そのまま少しづつカウンターの方へ誘導した。
 「もう何を忘れたのかも思い出せないけど、何かいいアイデアが浮かびそう。ありがとうね」
 先程より少しばかり活気のある様子の女性はそう言って上着を整え足早に店をあとにした。

 ミュージシャンの女性が去ったあと妃緒は再び個席に戻って紙袋とコーヒーカップを回収する。店の奥へ運んでいる間、妃緒は空にした筈のコーヒーカップの底に少しだけ水が溜まっているのに気が付いた。
 「何してんだ」
 妃緒がカップの底を見つめていると低く愛想のないマスターの声がした。急かされたように妃緒はカップと、それからメモ紙を手放して同じ台に置く。マスターが用済みだと言わんばかりの視線と仕草をやるので、妃緒はエプロンの腰紐をほどきながら、こちらの店と喫茶店を繋ぐ通路の方へ退散した。マスターは言葉無しに妃緒を操るのがまったく巧みである。
 きっとマスターは妃緒が自らの行いを後ろめたく思う囚人であることをよく分かっている。その所以ゆえんが 罪の意識であることまできっと。そして、そうとするなら妃緒は途方もない昔――最初から罪を背負っていると思えるのだ。自分の足取りが、呼吸が、気配が、 なぜこんなにも後ろめたいのか。ずっとそこにある『自分の姿が見える恐ろしさ』について、妃緒にはそう考えることしかできなかった。
 そこへ、鈍くこもりがちなドアベルの音が鳴った。妃緒は咄嗟に振り返る。マスターも同じ様子のようだ。裏玄関を閉めていなかったことへの焦りもあって妃緒は急いで腰紐を結び直して引き返し、また店の方へ出ていった。
 「いらっしゃいませ……」
 カウンターへのあと数歩、妃緒は歩きながら台詞を読む。客であろう青年がコートを折り畳み、妃緒の方を見つめた。
 「あれ、君は……」
 青年は妃緒に覚えがあるようだったので、妃緒もそっと彼の顔を見る。襟足を刈り上げた茶髪に、冬にしては少し薄手のコート。妃緒は駅をあとにした夕方の光景を思い出した。彼は買い出し帰りの電車で会った、茶屋の青年だった。
 「こんな所で会うとはね!まさか、ここで働いてるのか?」
 青年が驚いた様子でカウンターに近寄る。肯定した妃緒に青年が勤務時間の遅いことや年齢の若いことに触れて話していると、店の奥からマスターが姿を現した。
 「やあ、マスター」
 「知り合いか?」
 マスターが青年に訊ねるが、妃緒も二人に対して同じことを思う。
 「ちょっと電車で会っただけさ。この子、マスターが雇ったのか?」
 「ああ。あんまりつつくな。逃げ出すかも知れん」
 そう言いながらマスターが店の奥へと背を向けると、慣れた足取りで青年がそのあとに続く。仕切りのカーテン越しに店の奥を覗くと妃緒の方へマスターの声がした。
 「別件の客だ。お前はいい」
 「分かりました」
 マスターの退勤命令に返事をするが、妃緒は念のため先程閉め忘れた裏玄関の鍵を閉めに戻った。必要ならあとでマスターが開けるだろうと思いなが らカウンターをあとにし、妃緒も店の奥へと続く。少し先でマスターと青年が話し込んでいる様子を窺いながら、部屋へ戻る通路の方へと進んだ。
 「別件って……彼も手伝ってるんじゃないのか?」
 「……全部をやらせてる訳じゃない」
 行く順路が彼等と同じであるのが、話を盗み聞いているようで後ろめたい。妃緒の部屋だけでなくマスターや先輩の部屋、厨房や物置も全てこの通路 の両脇にあるのだ。マスターと青年はそのうちひときわ無機質な戸――マスターの物置の前で立ち止まっているようだ。鍵を開けるマスターの脇を通る時少しだ け見えた物置の中は、試験管が並ぶいつかの実験室の棚のようだった。
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