GOTAKU
STORY
「BAKU」
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  1.夢中

 木目調の床に電球色の灯り。室内から見る冬の窓外はひときわ青かった。少年は部屋中の窓のブラインドを閉め、表玄関に掛かったプレートを『CLOSE』に掛け替えた。鍵を閉めて無人の店内を振り返るなり、まだ上げていない椅子を隅から順にテーブルに上げていく。
 床に煙草。客の持ち込みであろう飴の包み紙。向こうの床には何だと横目に、少年は速足で厨房のそばへ掃除用具を取りに向かう。厨房から蛇口を捻る音がしたのを聞き取った少年は、その入口から中へ顔を覗かせた。
 「先輩」
 厨房に立つ後姿が再び蛇口を捻り、両の手から水を滴らせている。
 水音で声が届いていたか分からない。用件は応答があってからだ。
 「なあに、ヒオくん」
 しなやかにこちらを向く姿。少年の名に取って付けたような敬称は後輩とでも返すようだった。
 「食器、俺がやりますんで……置いておいて下さい」
 その人――先輩が両手を拭いているのを確認したところで厨房前をあとにし、ほうきと塵取りを持ってホールへ戻った。
 先程の床の煙草は灰皿へ。カウンター席の隅から順に床を掃いた。ここから始めるのは、少年が繰り返し行ってできた習慣だ。
 「なあんだ、まだじゃん」
 ホールに現れた先輩がカウンター席の方から少年の掃除の様子を覗く。
 「洗っちゃうからね」
 「でも……俺がやらないと」
 少年は俯き、床に喋るように唱えた。
 「いいよ。あとオレそれだけだから」
 「俺に任せて休んでください」
 少年は再び床に言い放った。目も合わせず床を掃いていたが、返答に間が空いたのでぎょっとして先輩の様子を窺うと、先輩は壁にもたれて頭の後ろで手を組み、足を組み、大あくびをして少年をその気だるげな笑顔で見つめていた。
 「仕事を早く片付ける。それだけのことだよ」
 抑えてはいたが、その声に交じる微かな溜息は差し詰め呆れたというところだろう。
 気付けばとうに床に戻っていた目線のまま「はい」とだけ返そうとしたその時、奥の方から足音と同時にあの香りが少年の鼻をついた。
 店内に染み付いたコーヒーの香りにも、喫煙席の残り香にもこの数ヶ月ですっかり慣れてしまったが、この香りはどれだけ吸っても決して少年の感覚に馴染むことはない。少し燻んだ様子であろう空気の中に顔を上げると、その霧の中に喫茶店のマスターが立っていた。
 「あんまり甘えてると意味がねえぞ」
 「はい……すみません」
 マスターの煙草の薫香の中には微かな甘い香り――というより、甘い果物の酸味を彷彿とさせるような香りを度々感じるのだった。
 マスターが少年の前で立ち止まるのを確認できたのと同時に、少年はせめてもの謙譲にと一度手を止め、立ち上がり、彼の眼差しをより近くでかぶる。少年はマスターが口を開くのを黙って見ていた。
 「働くのはいい。俺等の邪魔はするな」
 厨房の片付けを少年が代わることで、彼等の邪魔にはなるだろうか。結局この店の最後の電気を消すのはいつも少年だ。その時刻が遅くはなるが、彼 等がその分早く退勤すればいい――そこまで考えたところで、店の今日の片付けを少年一人に任せられる程の信用を得ていないという、ほぼ事実であろう仮定が 少年の思考を占拠した。
 「ごめんなさい」
 「約束は住み込みでの労役。店のいいように使われてくれればいい。それにお前には仕事がもう一つあるだろうが。処罰が欲しけりゃそっちにウェイトを置いてくれ」
 マスターが再び煙草を咥える。目を合わせているのかいないのか分からないが、その黒目がこちらを向いている。見ているというよりは眺めているようだ。少年からは顎の下が見えるマスターにとっては、だいぶ下の方を。
 吐き捨てたマスターの言う「約束」は、少年がこの店に雇われる時にしたものだった。
 その時少年は、自らの命を絶つために一人展望台のはずれに足を運んでいた。

 人を死なせたこと。それが今まで少年が犯した、おそらく最大の罪だ。
 しかし周りの者は事故だと、思いがけず起こった出来事だと言った。そしてついに少年が罰されることはなかったのだ。
 とにかく欲しかった。より重い罰が。心の傷が何だ。身体を痛め付けることだって何にもならない。どんなに傷付けても払い足りないと感じた少年は、死こそが最も重い罰だと信じた。
 彼女は死ぬ目に遭った。死には死を。その時少年が考えられるものは唯一それだけだった。
 しかし逃げるように命を投げ出そうとする少年のもとにマスターは現れ、少年を引き止めたのだ。マスターは、死は償いにはならないと言った。

 約束とは彼のもとでこき使われること。少年の罪への処罰としてそれを取り締まってくれるということ。それ以来少年はこの店で働き、暮らしている。
 少年が仕事をくれと言うことは、罰をくれと言うのと同じことだ。それに大して信用もされていない身分で出過ぎた真似をした。マスターは労役を取り締まってはくれるが、少年の欲しいがまま罰を与えてくれる訳ではないのだろう。
 「ヒオ、そっちの仕事は結構あるの?」
 先程カウンター席の壁際にいた先輩が再び少年に声を掛ける。マスターはゆらりと少年の視界から退き、傍にあったテーブルの上に、少年が逆さに並 べ置いていた椅子達を押し退け横柄に腰掛けた。晴れた視界の向こうでは先輩がカウンターに腰掛け足を組んでいる。その気だるげな眼差しにしろ、二人の悠然 さはよく似ていた。
 少年は再び床を掃く手を動かし始める。
 「いえ……件数はそれほど」
 先輩の言うそれは、マスターも言ったもう一つの仕事のことである。
 「でもそれが多いのか少ないのか、俺にはよく分かりません」
 少年はマスターを一瞥する。まだ雇われて数か月の少年へより、その仕事のことを知っているであろうマスターへ尋ねてはと思ったのだ。それを分かっていたかのようにマスターがこちらを見ている。くつろぐ姿勢のまま、その口元から煙を吹いた。
 「じゃあバクさん、どうなの」
 与えられた台詞を読むように先輩がマスターへ問いかける。バクさんというのは、マスターが少年らに名乗っている名前である。少年と先輩が視線をやると、マスターは煙草を口元で取った。発言を求められないと喋らない、そういうことだろうか。
 「多くも少なくもない。話は程良く出回ってるんだろ」
 「ヒオは何回できたの?」
 「ああ……お前、何回目だ。三、四回か」
 二人が話している間にどこまで掃除が進むかと思っていたがそれも束の間、会話には少年も交ぜられているようだ。
 「……まあ、それくらいです」
 不愛想に返事をしながらテーブル席とカウンター席との境目で塵を集める。少年はその塵を一度捨てるべく厨房近くのごみ箱へ移動した。
 先輩とマスターの言うその仕事は、少年が喫茶店の仕事とは別に取り組んでいるものであった。喫茶店のマスターが兼業で営んでいるのだが、その業 務内容は初め聞いた時は耳を疑った奇妙なものだ。そして決して店の正面に看板を掲げることはできない、裏稼業と呼ぶべきものである。
 少年がホールへ戻るなり、先輩がカウンターを降りてその制服を手で払う。
 「じゃあ戻るよ。お邪魔してごめんね」
 通りざまに少年の肩に手を置き、先輩は厨房へと戻っていった。
 少年はカウンター席の方の床を掃き始める。テーブル席の方ではマスターが少年の様子を気にする風もなく煙を吹いていた。
 掛け時計が午後八時半を指す。もう一つの仕事は、喫茶店が終わったこれからの時間から始まる。とはいえ、毎日必ず客が来るとも限らないから少年の夜はひたすらに客を待つ時間となっている。一晩に一人来るか、来ないか。客足はその程度だ。
 マスターに聞きたい事は山ほどある。しかし特にその仕事の方は、経験を積んで自分で掴んでいくものなのだろうと少年は漠然と感じていた。何より少年にとって、この罪に対して与えられた労役としては適したところがあると思えるのだ。
 少年に与えられたもう一つの仕事は、「客の悪夢を取り除く」という奇妙なものだった。この店のう悪夢とはおよそ、夢にまで見る辛い記憶といったところである。
 当時の少年は頻繁に混乱状態にあり記憶は断片的だが、初めてのその仕事をしたのはマスターに雇われて間もなかった頃だ。奇妙なことだが、そこでは店員として客の消し去りたいという悪夢を覗くのである。
 この数か月で二度、三度、四度目を終えて今に至る。少年は客の夢の感触を以てここ――マスターの喫茶店に留まっていると言っても過言ではない。 鮮明な他人の悪夢を摂ることがマスターと約束した処罰の取り締まりなのだと思わなければ、今ここに居る意味は少年の中でとうに失われていた筈なのである。


 *
 「あのー、ごめんください」
 喫茶店『夢見屋』建物内。広さは喫茶店のテーブル席ほどの、裏玄関と直結する一室。マスターが兼業で営むもう一つの店に、鈍くこもりがちなドアベルの金属音が鳴る。店内奥まで届くように少し張ったような、それでいて様子を窺って潜めたような一人の女性の声がした。
 少年――妃緒(ひお)は急ぐ風もなく、かといって店内奥から返事をするでもなく、その靴音を立ててカウンターへ出ていった。他に客は誰一人おら ず、店内にかけている音楽はカウンター後ろの天井に一つしかないスピーカーから微かに流れている。昼間の喫茶店でなら掻き消されている妃緒の足音もここで はよく響くようだ。女性が留守を疑っていた様子はなく、妃緒がくぐって出てきた奥の仕切りカーテンの方をはじめから見ていた。
 「いらっしゃいませ」
 すぐにカウンターに着いた妃緒は台詞を読み上げつつ卓上の小物を整える。店内の様子を窺いながら女性がカウンターに到達した。
 「ここって――」
 言葉に詰まり、女性の右手が宙を彷徨う。
 「――悪い夢を……その、」
 「合ってますよ。悪い夢を……何とかする店です」
 女性が戸惑うのも無理はない。彼女に店の情報がどう届いたのかは分からないが、謳い文句は『悪夢を取り除く珈琲店』の一文。言葉伝いで多少脚色を加えられたとして、胡散臭い上に商品やサービスの具体的な内容は把握できない筈。
 「そう、それです。合ってて良かったあ」
 少し強張っていた女性の表情がほどける。紅葉色の手袋を片方ずつ外し、カウンターにその手を掛けた。
 「何のお店です?アロマセラピーとか?」
 女性は妃緒の若さを見てか親しげな口調だ。
 「説明に少しお時間を頂きたいんですが、――」
 カウンター下の引き出しを開け、品書等の書類に手を掛ける。
 「――その……この店のサービスが少し迷信じみたものでも構いませんか?」
 妃緒は思考の半分を、この客が正式にサービスを受ける場合にする手順に巡らせていた。
 「ええ、何でもいいから癒されることがいいなあって」
 女性が愛想よく微笑む。妃緒は書類をカウンター上に置き、女性の方へ差し出した。
 「悪い夢を取り除くというのは、つまり貴方を悩ませている記憶を取り除くんです」
 「記憶って、ほんとの記憶?」
 わからない顔で女性が訊ねる。
 「はい……ただ、そのためには貴方の夢の中を少々こちらが覗くことになります。特にお望みでないのならお勧めしませんよ」
 覇気も抑揚もない妃緒の声。説明も初めての客に対して親切とは言えず、返答を急かすようでもあった。今までも客から軽蔑に近い視線を向けられてきたが、この女性の気には障らないようだ。
 「そんなの初めて聞いた。どうやってやるの?」
 妃緒は一度言葉を呑み込んだ。ここで客の対応をするたびに思う――もし自分がこの店に来た客だったら、この話を馬鹿らしいと感じるに違いないと。妃緒はこの夜中よるじゅう客を待っているとはいえ、いざ客が来たとき喜んで勧めることができない。人が聞けば馬鹿らしいであろうこの店にすっかり溶け込む自分の姿は、見るにも見られるにも忌まわしいものだった。
 「少しお話をお聞きしまして、そのあと眠って頂きます。二時間ほど……多少は前後しますが頂戴します」
 「眠るのね。なんだか夢らしい」
 しかし、『悪夢を取り除く』などと聞いてこの店に一人で訪れるということは、この女性にも何か逃れたいものがあるのではないかと妃緒は思う。ありふれた疲れや、些細な憂鬱のたねであろうと、少なからず。
 「話をするのと、眠るだけ?」
 「はい。それだけです」
 女性がカウンター上に妃緒が出した書類を見つめる。ざっと目を通した様子の女性は納得したように頷き、書類に視線を残しつつ顔を上げてみせた。
 「うん――じゃあお願いしようかな」
 妃緒は予期せぬ沈黙を数舜設けたあと、読み終わったと言うように女性がこちら側に滑らせてきた書類を手元でまとめ、開きかけていた口を動かした。
 「……宜しいんですか?」
 妃緒は女性が説明書きを眺めるようにしか読んでいなかったのを見ていただけに不安があった。この店のサービスが女性が期待するような事なのかどうか――あとから苦情を言われるのはかなり気疲れするのだ。
 「うん。やってみたいもの」
 何も疑わない顔をしてまた女性が微笑んでみせる。
 「当然、秘密は厳守致しますが……あまり面白いものではないと思いますよ」
 「いいの」
 女性は肩から下げた鞄から財布を取り出した。無邪気そうに思えた先程までの笑顔の少しが払い落とされ、毅然とした声での注文が妃緒の耳を貫く。
 「悪い夢を取ってしまいたいの。楽になれるかも知れないと思った所にはもう色々と行ってるわ。アロマセラピーやマッサージじゃなくたって、全然構わないから」
 「……分かりました」
 何となく、これまでの女性の態度の謂われが見えた気がした。何も知らず好奇心だけで言っている訳でも、冷やかしで言っている訳でも、期待している訳でもないのだ。
 「ではこちらへ」
 妃緒は先を歩き女性をテーブルへ案内した。

 「マスター」
 並んだ二つの個室席のうち手前側の空間に女性を通し、妃緒は仕切りの向こうへ呼びかけた。席に着いた女性は黙ってテーブル中央に並んだコーヒーの抽出器とパーツに目を凝らしている。マスターの返事は聞こえなかったが、その硬い足音が近付いてきた。
 「このお店の人、こういう感じなのね」
 席で女性が笑い、囁く。まだ座らずにいる妃緒が僅かに会釈を返していると、席の仕切りの向こうにマスターが姿を現した。
 「お客様です。お願いします」
 「おい」
 個室席を離れようとする妃緒を、マスターが低い声でとどまらせる。
 「お前、聞けよ。話聴くぐらいできるだろ」
 「え……」
 今まではマスターが客の話を聞く相手をやっており、自分がその役を替わるということが頭に無かった。仕切りの方を見上げて間抜けな一声ひとこえを出したきりの妃緒を、もう一つの声が呼び止める。
 「ねえ、私も貴方がいいんだけど」
 「へっ」
 妃緒が再び声を漏らすと、マスターは踵を返して奥のカーテンの向こうへ消えてしまった。
 「だってさっきまで話してた人の方がいいもの」
 そう言って女性が頬杖を付く。
 「招致しました。少しお待ち下さい……」
 妃緒は女性に返し、駆け足で店の奥へと向かった。

 慣れない役割を案じた身体が強張っているのが分かる。妃緒は溜息を吐きながら奥の部屋で必要なものを手に取った。
 「嫌な顔して客の機嫌を損ねるなよ」
 「分かってます……」
 少年と、それなりの年を重ねた大人。二人の店員が居たとして、客がこれから悪夢の由来を語るという相手に少年の方を選ぶとは思っていなかった。 妃緒の外見はこれといって年相応であり、態度や言葉遣いをとっても生半可だ。寧ろ今まで、ここは自分の出る幕ではないと下がっていたというのに。
 行ってきますと一言呟いてマスターの焚く煙を抜ける。昼間ウェイターをしているときのように姿勢を正し、再び席へと戻った。
 「お待たせしました」
 仕切りの端から女性の顔が見えたところで声をかけ、妃緒はテーブルのコーヒー抽出器を挟んで向かい側に入った。
 「失礼します」
 視界の端で女性の顔色を窺いながら座り、机上に二枚の紙とペン、そして隅にコーヒーの粉が入った半光沢の紙袋を置く。
 「眠って頂く前にご署名をお願いしますのでご了承下さい。お話のあとで結構です」
 「今書いてもいい?」
 女性がペンを持つが、妃緒は手元で少しめる仕草をやった。
 「いえ、あとの方が……やっぱり辞めたい、という場合もありますので。ご署名頂かない限りはこちらもそれ以上進みません」
 端的に言うと、この時点ではまだ客に引き返す余地があるということ。妃緒は女性にあまり簡単に決断させないようにと慎重になる。
 「いいけど、そんなに慎重になるもの?」
 「信じられないと思いますが、こちらも記憶を取り扱うことになってますので……」
 このような馬鹿らしい言葉で伝えるしかなかったのがもどかしい。妃緒は自分がテーブルの下で腕を押さえているのに気が付くとゆっくりと離した。
 「……お話の内容はここでのみの秘密に致しますが、お客様もこのサービスの事は……――」
 「内緒ってことね。分かった」
 口元に手先をやる女性。妃緒は話のメモを取るべく胸ポケットのペンを取り、もう一枚の紙に手を添える。
 「では……その悪い夢というのを、できるだけ具体的に教えて下さい」
 妃緒は抽出器越しの女性に目をやった。自分と相手の間にガラスの器を挟むだけで先程のカウンターでより随分とやりやすいものだ。
 女性が考える素振そぶりをしながら話しはじめた。妃緒は相槌を打ちながら、コーヒーを淹れる手順を追って器具に手をかける。女性が話していくうちにフラスコの水に泡が沸き、微かな音を立てていった。

 静まり返った空間に微かなピアノ音が残る。女性を別の部屋に案内した妃緒はテーブルに戻り、ついさっき火の止まった抽出器に目をやっ た。隅に置いていた紙袋を畳むと袋の口に触れた指先が僅かにざらつく。指を擦り合わせるとその粒がコーヒーの香りを立てて妃緒の鼻をついた。
 妃緒はコーヒーと泡が残った抽出器上部のガラス器具を取り外し店の奥へ下げた。代わりにコーヒーカップを持って戻り、再び席の椅子に腰掛ける。机上には先程女性が記入した書類が一枚。書き込みが済んだ同意事項のチェック欄と署名欄。
 “この夢を獏にあげます”
 妃緒は書類の最後の項目から目を逸らした。
 既にフラスコの中に落ちていたエスプレッソをカップへ注ぎ、何度目にもなる苦みを思い出しながらながら口に運ぶ。妃緒にとって強いて飲みたいと思える味ではないが無心で飲み続ける。やがて空になったカップを受け皿に返し、妃緒はただ器の底を見つめた。
 客が話した悪夢――ことに記憶から消し去りたいという悪夢に今から踏み入る。
 妃緒はゆっくりと目を閉じた。


 妃緒は見晴らしの悪い霧の中にいた。
 足元には街の随所で普段見かけるような煉瓦色のタイルが等間隔に敷き詰められているようだ。妃緒は霧の中に微かに見える建物らしい影に近付いていく。香ばしく微かに甘い香りに気が付くと、看板と一軒のパン屋が姿を現した。
 妃緒は左手に持っていたメモ紙に目をやる。先程の女性が記憶から取り除きたいと言ったものと、それに関するメモである。
 “「頑張ってね」と言ってくれる姪”
 “天使のような笑顔”
 妃緒は客が取り除きたいものについてできるだけ詳しい説明を求めるようマスターに言われていた。妃緒が客の夢に入ったとき、それを特定するため――他のものと間違わずに取り除くためだ。
 妃緒はそれに続く自らの走り書きに目を通す。そしてもう片方の手の中にある拳銃の感触を確かめ、カフェエプロンの下に潜ませた。
 「いらっしゃいませ」
 店に入ると、先程までの霧の代わりにパンの焼いた香りがすっかり充満していた。幾つも種類のあるパンが木製の陳列棚に並んでいる。妃緒は奥のレジカウンターを挟んで話している、歳の離れているであろう二人の人物に目をやった。
 「わたし、これが大好きなの」
 「そうよねー、いつも買ってくれるものね」
 カウンターの内側に立っている人物はこの夢の主――先程の女性であった。そして彼女とカウンター越しに話をしている小さな少女が、女性が言って いた彼女の姪であること。そのことを確かめるべく、妃緒は陳列棚を見やりながら、女性と向かい合う少女の表情を窺える位置に店内を移動した。
 「すごくおいしくて、すごくかわいくて、大好き!」
 少女は幼い子供のするあどけない口調で語りながら、パンの入った袋を女性から受け取っている。女性と少女の表情は幸せそうであった。
 しかし女性が妃緒に語ったのは、姪の純真な笑顔と励ましに女性自身が縛られているということだった。
 女性はこの辺りでパン屋を経営する店主らしい。若くから街のパン屋で修業を積み、開業のために日々を費やし、店舗を借りてやっと開いた店の運営 の資金が今、底を突いてしまったという。女性は時々店に訪れる姪が「がんばってね」と言ってくれた時のまぶしい笑顔が頻繁に脳裏でよみがえり、閉店に踏み 切ることができないという状況だった。
 「ありがとう、お店がんばってね!」
 その言葉を聞いたところで妃緒は、少女が女性の姪である事、女性の悪夢の原因である事を自分の中で断定するための条件をそろえていた。
 妃緒はエプロンの下から拳銃を取り出した。銃口を少女に向けた。引き金に指を掛けた。
 この夢の中から取り除くべき女性の足枷となっているもの。あれを撃つ。妃緒はそれ以外何も考えなかった。
 引き金を引き、瞑っていた目をゆっくりと開けると、夢の景色は銃弾が裂いたところから煙のように消えていった。


 「なんだか不思議な感じ」
 帰り際、女性はカウンター越しの妃緒にまた愛想良く笑った。
 「でもなんとか割り切れそうかも。ありがとね」
 気の利く切り返しもない妃緒はただ「良かったです」と相槌を打ち、女性を見送るべくカウンター前の定位置に移動する。
 「またどこかのパン屋で働こうっと。生活を立て直さなきゃ。お店の譲り先もあるし、きっと大丈夫!」
 拳を握り、自分を納得させるように言う女性。どこか寂しそうでもあったが、決心が付いたようだった。
 妃緒が再び相槌を打つと、女性は再びマフラーと手袋を身に着けカウンターをあとにする。
 「ありがとうございました」
 妃緒は深めに頭を下げ、そのまま女性が店を出て扉が閉まるまでを待った。ドアベル音のあと扉が閉まると、妃緒は静かに溜息をつき店仕舞いのため片付けをはじめた。
 妃緒が客の夢に遭うのは今回で五度目だった。四度目までの夢の内容を今ではあまり覚えていないというところは、普段見る夢とあまり変わりがない。妃緒の記憶から徐々に薄れていくそれらの夢は、マスターによって瓶詰めにされ喫茶店にある彼の物置に保管されているという。
 妃緒は悪夢を他人の分まで見ることで、擬似的に他人の精神的な苦痛を体験できるのではないかと考えていた。それがその時限りの苦痛だとしても、 繰り返し他人の悪夢を見ることで他人の痛みの一部を感じ、誰かと『同じ痛みを受けること』への足掛かりになるのではないかと思っていた。
 しかし今日、妃緒が見たものは苦痛とは程遠い光景。先程の女性が悪夢と感じていたものは妃緒にとって悪夢ではなく、そのことは妃緒の漠然とした期待に反していた。所詮彼女の苦痛は、彼女の中のものでしかない――
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