XX.忘れられた時間
*
展望台ほどに聳えた大きな丘の上。赤レンガの町の一角に、時計屋があった。
「時計の淵に、鳥の絵を掘って」
カウンターの奥にある小さな工房。少年は鳥の絵を描いた紙切れを、机に置かれた機械の前に差し出して言った。
小さな機械は古びたキャタピラーを僅かに動かし、紙切れに近付く。そして紙切れを覗き込むかのように、レンズを付けた自らの上部を 突き出した。
間もなく機械の繊細なドリルが金属に鳥を刻み込むのを、少年は初めてのものを見るかのように眺め入っていた。
少年の時計屋での仕事は、時計の外模様を作る工芸だった。しかし体が極端に弱い少年は、デザインを描くことが出来ても、自ら金属などの素材に掘り込む作業には限界があった。
「いつもありがとう、君のお蔭で助かるよ」
一人きりの工房で、少年は呟いた。
午前八時。すすけたカーテンの隙間から指す日差しに、小さな機械のレンズが輝いた。
少年のデザインを実物に再現するのは、この小さな機械だ。
時計屋に限らず全ての仕事には、助手としてその業務に合った機械が導入されている。人間では出来ない正確な作業は、その機械が担当するのが一般的だ。
機械を一つ助手とするのに、少年はこの機械を選んだ。似た機能の機械は幾つかあったが、やはり完全に同じではない。機械にも微妙な加減の違いや、癖があった。
少年はその機械の中で、自分の描いたデザインをより正確に再現してくれる機械を探していた。だが少年がこ の機械を選んだ理由は、自分の絵を上手く再現してくれたからではない。
勿論少年の選んだ機械は描いたものをほぼ正確に再現したが、それは他全ての機械にも言えることだった。
その時少年の目を引いたのは、自分のデザインが何か手を加えられたかのように描き出されてきたことだった。
他の同じ型の機械には無い堀目の粗さ、凹凸の不完全さとあと少しの何かで、自分の絵が描き換えられたかのように思えたのだ。
少年はこの機械が描くものに惹かれた。気が合っただけなのだ。
他の機械と比べて、何かが違う所があったのかも知れない。どこかに欠陥があっただけなのかも知れない。それでも少年はこの機械に出会った瞬間、少しずつ違いがあるはずの他の幾つもの機械が、同じものにしか見えなくなった。少年が選んだ機械だけが、特別な機械になった。
だから同僚の助手が少年の機械と同じ型であったとしても、決して少年の助手が務まることは無いのだ。
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少年の工作は、夜も続いた。
「時計の淵に、鳥の絵を掘って」
少年の機械には、不得意なことがある。
あまり長い間、物事を覚えていられないのだ。
新しい事を覚えるためには、代わりに忘れる必要がある。少年の機械は、その憶えているための性能が低いのだ。
新しい事を覚える機能と引き換えに、少年の機械は十二時間経った記憶を自動的に忘れるプログラムが組み込まれていた。
そのため少年は、十二時間ごとに再び同じ指示を出さなければならない。
「君は絵が上手いな」
一人きりの工房で、少年は呟いた。
助手は模様を彫り終わると、出来上がった部品を少年の手に渡す。こちらを向いたレンズが、蛍光灯の光を浴びた。
「うん、完璧だ」
少年は無邪気に笑って、小さな機械に触れた。
「沢山働かせてごめん。でも、君と工作をするのが楽しいんだ」
初めてこの機械に絵を描かせた時、自分の絵が描き換えられたように感じたのは事実だが、今はそうではない。少年は毎日、この機械と共に時計を作っているのだと感じていた。
「君が私の代わりに掘ってくれるなら、私は君の代わりに憶えていてあげるよ。忘れっぽいくらい、私の運動音痴と同じ事だ」
返事は無かった。
工芸担当の少年の機械に、音声機能は無い。相槌を打つ機能も無い。この型の機械にあるのは、僅かな移動機能、カメラ機能、模様を掘る機能でほとんどだ。
言葉を認知はしても、返事をする機能が無いため会話は出来ない。
少年は物悲しい気分になりながら、助手に語り掛けた。
「返事が出来ないくらいで、もの扱いしたりしないからね」
機械は体を少年の方に向け、レンズで少年を見上げていた。
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「新人、起きなさい」
翌朝六時。工房で眠っていた少年を、時計屋の店長が揺すり起こす。
「街の時計屋から丁度いいお誘いがあったから、あなた研修に行ってきて」
「はは、新人ですか…」
「二年なんて青い青い。ほら起きて支度しな」
姉御肌の店長に凄みを利かせた声で起こされ、少年はふらつきながら開店前の店に出た。
「店長…その街までどのくらい掛かりますか?」
少年は襟を整えながら店長に訊ねた。
「時間が掛かったら嫌だっていうの?」
カウンターに頬杖を付いて、店長は少年を睨み付けた。
「いえ、そうではなくて」
少年は平然と切り返す。
「ただ、時間が知りたいんです」
店長は頬杖を付いたまま黙っていたが、数秒経ったあと片道二時間だと教えてくれた。電車での移動なので、体力のない少年でも大丈夫だと言って、気の強い店長は少年の背を強く押した。
少年は答えを聞くなり適当な相槌を打ち、もう一度工房に戻った。
工房に入ると、机に置かれた助手のレンズが少年を見上げていた。
「おはよう…」
曖昧に呟いた。
少年は袖で助手のレンズを磨く。
「私は今日、ちょっと出張なんだ」
自分の動悸に気付き、少年は連鎖して焦った。
「すぐに戻ってくる。すぐだから」
零れ入る朝日に、機械のレンズが輝く。
少年は機械のレンズに額を付けて、目を閉じた。
「私の事を、忘れないでくれよ」
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込み合った電車が揺れる度に、少年の頭はかき回された。
治まらない動揺は少年の動きを凍りつかせ、鼓動だけが高鳴っていた。駅ごとでの僅かな停車、秒針の進む音ですら少年を苛立たせ、焦らせ、怖がらせた。
今まで直視することを避けてきた自分の中の不安が、抑える間もなく込み上げてきた。
十二時間経った記憶を忘れていく少年の機械は、同時に十二時間前の少年のことを忘れ続けてきた。一時間離れれば、彼の中で少年と過ごした時間は十一時間だけになり、二時間離れればそれは十時間だけということになる。
つまり十二時間離れてしまえば、彼は少年を全く忘れてしまうという事だ。
いつも何処か悲しかったのは、少年の機械が自分の事を忘れ
続けているという事実がいつもあったから。毎日変わらないはずの平坦な作業がいつも新鮮に見えたのは、少年の機械がいつも初めての作業をしていたからだ。
それでも少年は、程なく忘れられてしまう時間の中で、いつも傍に居ることで機械との関係を保っていた。
忘れないでいて欲しい
それが毎日、毎分、毎秒ごとに裏切られている願いなのだとしても、少年と機械の関係が止め処ない程に儚い関係だったとしても、それが少年の、変わることのない願いだった。
儚いということは、ともすると簡単に消えて無くなってしまうということだ。少年と機械の絆は太いものでも、強いものでもない。
しかし一番大切なものがいつも儚いものであるということは、誰にも譲れない事実なのだ。
*
朝に自分の時計屋から出発した少年だったが、帰る頃には辺りは真っ暗だった。夏とは違い日が短いからという事もあるだろうが、その暗さは少年の不安をまたも掻き立てた。
少年はいつも自分の助手としての機械に、まず朝に作業手順を教える。そして日が落ちた十二時間後に、再び同じ指示を出していた。
少年にとって日没の時間は、自分が忘れられることを一番に感じる時間でもあった。
帰りの電車は込んではおらず、学生と酒に酔った乗客が席の所々にまばらに座っていた。
酒は美味しいのだろうか。少年は健全な未成年なりに、どうということもない疑問を頭に浮かべる。
何か忘れたいことでもあるのかも知れないな。
少年の機械だって、忘れなければ記憶で頭が一杯になってパンクしてしまう。忘れなければ壊れてしまうのだ。
少年は自分に言い聞かせながら、座っていることしか出来ない電車の中で揺られていた。
*
「只今戻りました」
時計屋に戻った少年は、ふらふらの足取りで戸を開けた。
戸に釣り下がったベルが、金属の余韻を残す。
疲れきった少年は倒れそうな体をあと少し動かして、カウンターの奥の工房へ向かった。
暗い工房に入り、小さな蛍光灯の明かりを付ける。
机の上には、小さな機械が乗っていた。
少年は機械の前に立ち、じっと見つめた。
カメラのレンズは、少年の方を向いていない。
少年は袖で機械のレンズを優しく磨き、また語りかけた。
「はじめまして。これからずっと、一緒に工作をしていこうね」
古びたキャタピラーが僅かに動き、蛍光灯に輝いたレンズが少年を見上げた。